ぱりぱりぴんぽろぺろぺろぷん

買ったもの見たもの読んだものはこちら

9月24日

久しぶりにカラオケ屋で笛の稽古をした。

しばらく家で稽古するようにしていたのでカラオケ屋で吹くのは久しぶり。

なんだかんだで700円くらいかかるから家で吹いた方がお得なんだよな。

でも家を出る用事が多くなってきたので、外で定期的に吹かないと年末の舞台に間に合わない。

カラオケ屋のリサーチも兼ねて、毎日昼に吹くことにした。

制限時間は30分、盤渉楽を通しで1回、あとは気になったところを直す。

昔は1時間吹いていた。

しかしどうしても今は集中力が続かない。

30分の制限とした方が濃縮された感じがしてよい。実際1時間吹くと後半はダレる。

 

出るときに店員から「楽器を演奏する際は一声かけてください」とたしなめられた。

出禁じゃないだけマシか。

4月17日

将来に希望がもてないこと、について最近考える。

生きる意味、なんて内在するものではなく、外からもってくるもの、しかもそれは往々にして誤解、なんだけれど。

私の年齢なら多くの人は結婚し、子供をつくることで、生きる意味をそこに見出す。

「この人のために生きる」「この子が一人前になるまでは頑張る」。

そうでなくても、仕事や仕事でなくても何か没頭できるもの、について生きる意味を見出す人もいる。

いずれにせよそれらは全て人との関係を前提にしたものだ。

人との関係をとっぱらってそこに希望は見出せるのか。

人との関係の中で問題を先送りにしているだけではないのか。

そんなことばかり考えるのは最近生活のペースを守ることに注力しすぎたからだろうか。

1月5日

漠然と定年後のことを考えがちだがそこまで生きているのだろうか。

生みの母は48歳で死んだ。
鼻の癌だった。鼻腔か副鼻腔かは聞いていない。
6年くらい手術を繰り返し闘病していたように思う。
 
このことを考えると、何もなく健やかに生きられるのもあと5年くらいだ。
 
あと5年を馬車馬のように働くことに意味があるだろうか。
そんなことを考えながら過ごした年末年始だった。

 

9月11日

決死の思いで臨んだイベントに失敗。

ここであきらめずに二度、三度繰り返すべきなんだろう。

でも心がそこまで持つのだろうか。

こういう出来事を昇華できるタイプではないのでしばらく鬱々とするのだろう。

まあいい、病院に行く理由ができた。

9月10日

ポップ中毒者の日記を読んでいたらセルジュ・ゲンスブールの話が出てきたので調べてたらジェーン・バーキンの旦那だったりフランスギャルをプロデュースしてたことなどを知る。しかも娘はシャルロット・ゲンスブールだ。ニンフォマニアックじゃないか。全然知らなかった。

ジェーン・バーキンもバッグのバーキンの印象しかなかったのだが初めて写真を見た。惚れ惚れした。なんであんななんでもない服が似合うのか。スタイルか。スタイルなのかあれは。

死霊の第1巻を読み終わった。昔はなんだこれと思ってたが落ち着いてゆっくり読むと実に良いことがわかった。多少は抽象的な思考ができるようになったのだろうか。続いて2巻に入る。

4月11日

日々の意思決定を書き連ねてみる。

 

朝起きる。

寝覚めが悪いので新しい布団を買うことにする。都内で布団を買える店を探す。ここでのパラメータは距離と品揃え。日本橋西川を選んだ。

しかし、実際に足を運んでどういう観点で布団を選ぶかを想像して腰が重くなる。しかも西川はネットで見る限り単価が高い。選ぶのにも慎重になる。しかし今のところ寝心地のパラメータとしては布団の固さくらいしか思いつかない。しかも布団の固さが本当に寝心地に関係するのかも心もとない。

ということで5000円程度の厚みのあるマットレスを注文して寝心地を確認することにした。固さ以外のパラメータをこれで探索する。

マットレス注文後、運動について思いを馳せる。活動時間を長くしたいのだが、疲れからか、あまり起きていられない。運動によって活動時間が長くなるのなら導入したいが運動のために時間はとりたくない。ならば移動時間を運動にあてれば良いと思い至った。

移動時間を運動にあてるに際して、ネックになるのは鞄。革の手提げを使っているがこれは走るには適さない。手をあけたいのでリュックかそれに準じるものが良い。ここでのパラメータは体へのフィット感とデザイン。残念ながら21世紀においてhaptic deviceはあまり発達していないのでこれは店にいかないとわからない。こういうの擬似体験できないかなしかし。で店にいったけどどうもフィット感がないので今回はあきらめる。

走りながら野菜の摂取について考える。野菜はビタミンと食物繊維という観点から一定量は摂取したい。サプリメントでも良いとは思うが変化が無いので飽きる。近くに野菜ジュース屋があったのでここのメニューを日替わりで頼むことにした。ここでのパラメータはビタミン、食物繊維の摂取量と味。今日はにんじんジュースにした。

野菜ジュースの後はコーヒー豆を買いに行った。最近やっとコーヒーの味が区別できるようになってきた。温度が低い方が区別しやすい。味の変化は豆の種類、ローストは当然としてナチュラルかどうかでも味が変わる。ナチュラルの風変わりな香りが好きなので最近はそればかり飲んでいたが、今日は新しく入った豆にした。ルワンダの豆。

メモ:継続して意思決定を求められる場合に必要なものは2つ。指標と再現性。

8月11日

物事を抽象化して捉えると全て見えた気になってやる気がなくなる。対抗するには何気ない日々の手順を丁寧に追っていくことだ。たとえば炊事洗濯掃除。目前のものに集中し頭ではなく感覚で味わう。倦怠を打破するにはそんな訓練が必要なように思う。

一定のアウトプットをしないと澱が溜まってくる。今までその対象は人間だった。色々な人とふれあうことで手を変え品を変えアウトプットしていた。だが別に人間でなくとも良いような気がしてきた。たとえば文章。たとえば楽器。ただただ技術に習熟していくことに没頭する。それで充分なのではないか。とかく人間は辛い。距離を置きたい。距離を置けるような生き方をしたい。

舞台を観た。舞3つと楽1つ。わからないと突き放すのではなくなぜその表現なのかを理解するように努めた。が拙い。テーマは突き詰めたのだろうか。与えられたテーマから想起するものを表現するというのはわかる。だがそのままでは観客には伝わらない。切り捨て煮詰めた凝縮が必要だ。そしてその凝縮物をどのようにして伝えるか。そこで身体が問われる。技術が問われる。指先一本動かすにしてもそこに理由は必要だ。必然性の無い動きをしていいのはそういうコンテクストにある一部の人間だけだ。発散のみを感じた舞台だった。